2014年04月26日

『新薬』の主成分は『信頼』

ここのところ、色んなところで発生している「データねつ造」疑惑で、世間一般の人の科学に対する信頼が低下しつつあります。

製薬業界としても、国民の信頼回復に動いています。

たとえば製薬協から次の通知が出ています。


「製薬企業による臨床研究支援の在り方に関する基本的考え方」
      ↓
http://www.jpma.or.jp/event_media/release/pdf/20140422.pdf



治験では、治験依頼者、治験責任医師等、CRC、被験者のそれぞれが信頼関係を要求されます。

一か所でも信頼関係が崩れたら、治験として成立しません。

モニターの皆さんはCRCの方と信頼関係を構築していますか?

では、信頼関係はどうすれば構築できるでしょうか?

あなたは、どんな人なら信頼しますか?

約束を守る人。

真摯な態度を取る人。

嘘をつかない人。

常識的な行動を取る人。

時間を守る人。

話をよく聞いてくれる人。

どんな人とも誠実に付き合っている人。

・・・・・・など等。


逆に、あなたはCRCの方を信頼していますか?

こちらが信頼していないと相手からも信頼されません。



今、私たち製薬業界は信頼を失いつつあります。

今、私たち製薬業界は『瀬戸際』に立っています。



よくよく考えると、GCPはいくつもの「事件」(ソリブジン事件等)で改定、強化されてきました。

これは『恥』の歴史ではないでしょうか?

「事件」→「法律の強化」→「事件」→「さらなる法律の強化」・・・・・・・・。

まるで、幼稚園です。

そんな業界で働いている僕たち。

他人事と思って働いていませんか?

恐ろしいことに、それは決して、『他人事』ではありません。

私たちの足元が、今、まさに崩れかけているのです。

私たちは、それを食い止める努力が必要です(それも相当な)。

首まで泥沼にはまり込む前に。


規制当局の人たちは私たちを信頼して新薬の製造販売申請のデータを見ます。

患者は医師を、CRCを信頼して治験に参加します。

その根本的な信頼関係が、今、崩壊しつつあります。


『新薬』の主成分は『信頼』です。

お互いを攻め合っている場合ではありません。


私はあなたを全面的に信頼しています。



posted by ホーライ at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 製薬業界の話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月19日

『GCPの枝葉末節にとらわれ過ぎないようにね』的な発想も大事だと思いませんか?

今週のホーライ製薬は「ヘルシンキ宣言」について。

GCPにもヘルシンキ宣言のことが記載されていますよね。

でも、僕たちはどちらかというとGCPの「手続き論」に右往左往しています。

やれ、「治験分担医師・協力者リスト」は「予め」医療機関の長の了承が必要だ、とか、やれ「治験の契約終了後」にSDVをする時はまた、契約が必要か?とか。

まぁ、私のGCPメルマガでもどちらかというと、そういう手続きについて質問が多いので、あまり大きな声で言えませんが。


でも、本当は一番大切なのは、「治験に対する姿勢」とか「仕事に対する倫理観」とか、なんですよね。

極論を言うと、GCPは、結局「被験者の人権の保護、安全の保持及び福祉の向上を図り、治験の科学的な質及び成績の信頼性を確保」することだけを考えればいいのです。

もちろん、「同意」は「治験薬投与の前に」という手続き論的なことはありますが、それ以前に上記のGCPの根源的な存在意義を捉えていないといけません。

GCPの重箱の隅を突いたような質問とか、GCP「文言」に捕らわれたり、「真面目な」GCPの解釈に終始したりすることは、あまり重視しなくてもいいと思います。

GCPは「学問」ではないのですから。

(製薬協の「治験119番」を読んでいると、「こんなのどっちでもいいんじゃないの? 要は誰がやったかが分かればいいんじゃない?」的な感想を正直、僕は時々、持っています。


「ヘルシンキ宣言」にも、もちろん、手続き論的な項目が多いですが、それ以上に「医学的研究」に対する医師の「姿勢」を整える項目も少なくありません。

たとえば、「「私の患者の健康を私の第一の関心事とする」ことを医師に義務づけ、また医の国際倫理綱領は、「医師は、医療の提供に際して、患者の最善の利益のために行動すべきである」と宣言している。」とか「医学研究の対象とされる人々を含め、患者の健康、福利、権利を向上させ守ることは医師の責務である。医師の知識と良心はこの責務達成のために捧げられる。」とか。

ただ、このような抽象的な原則をどう守るか、というと難しくて、「ヘルシンキ宣言」の言葉だけをなぞってもよく分かりません。

なので、上記のような原則論を守るために「手続き論」的な項目があるとも言えるわけですが。


今、僕は新入社員の導入研修をしています。

その研修では、こんなことも言います。

「GCPを守ったけれど、患者は死にました、というのは本末転倒だ。」とか「GCPの手順を守ろうと手続きに追われていたら患者が重症化しました、なんていうのは倫理的ではない。」とか「GCPの解釈に困ったら、「被験者の人権の保護、安全の保持及び福祉の向上を図り、治験の科学的な質及び成績の信頼性を確保」を思い出せ。これを守っていたら、そうそう大きく外れることはない」とか。


ディオバン事件についても、たとえば、「ヘルシンキ宣言」にある次の1文をしっかりと理解していれば、あんな問題は起こらなったのでは、と思います。

「すべての研究者、著者、スポンサー、編集者および発行者は、研究結果の刊行と普及に倫理的責務を負っている。」


また、次の「ヘルシンキ宣言」の1文も、昨今のデータ偽装疑惑を再発防止に役立ちます。

「人間を対象とする医学研究は、適切な倫理的および科学的な『教育と訓練』を受けた有資格者によってのみ行われなければならない。」


今の医師(治験責任医師・治験分担医師は特に)は倫理的および科学的な『教育と訓練』を十分に受けているのでしょうか?

僕は数年前に、ある国立大学の付属病院にGCP絡みの講演に行ったことがあります。

その時の研修の主宰者が「こういった研修になかなか医師が集まらなくて・・・・・・。」と嘆かれていました。


治験の適切な運営には製薬会社の社員はもちろんですが、同様に治験責任医師等に対する教育・訓練も必要です。

場合によっては「この研修を受講しないと先生のキャリアアップに支障を来しますよ」的な遠回しの「脅し」も時には有効かもしれません。


GCPにしろ、「ヘルシンキ宣言」にしろ、手続き論的な項目は「教えて、暗記してもらう」という手法でなんとかなりますが、「倫理的原則」や「倫理的責務」を学んでもらうのは、それほど簡単ではありません。

でも、たとえば、企業ではよく「コンプライアンス研修」等もやられています。

そういう研修では世間を騒がせた具体的な事件をケースを紹介して、「こんなことをやってしまうと、社会的に、あるいは法律的に制裁されますよ」的な「アメと鞭」で言うと「鞭」的な研修をやったりします。

あるいは、「こういうことをやったら、倫理的にどうなんでしょ?」とか「こういう事例は倫理的に問題ありませんか」的なケーススタディをします。


「ヘルシンキ宣言」はおおもとは戦争時の捕虜に対する「非倫理的な人体実験」とか「精神疾患の患者に対する非人道的な実験」などの反省からできた宣言です。

しかし、この「ヘルシンキ宣言」が出されたあとも世界各地で「非倫理的で非人道的な人体実験」や「新薬に不利なデータの隠ぺい事件」が発覚しています。

(「非倫理的 人体実験」や「非人道的 実験」、「新薬に不利なデータの隠蔽事件」等でネット上を検索してみてください。)


GCPや「ヘルシンキ宣言」の枝葉末節にとらわれ過ぎに本質を追求していきましょう。

でも、その前に、やっぱり、GCPや「ヘルシンキ宣言」を熟読するのが先決ですが。(読まずに「本質」も何もあったもんじゃありませんからね。)

posted by ホーライ at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 治験の倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月12日

科学者の良心を育てるには?

今週のホーライ製薬は「ディオバン事件」について。

この事件で課題になっているのは科学者・医学者等の良心の存在。

功名心にかられてデータをねつ造する科学者。

金銭的魅力に負けて良心を悪魔に売り渡す科学者。

・・・・・・どうしたらいいんでしょう?

僕は、こう思います。

「良心」は自分自身に対する最後の砦です。

「良心」は自分に対する「尊厳」のためにあります。

人間としての最低限の尊厳、死守したいものです。


もし、それを失ったら、自尊心が無くなります。

自尊心が無くなると人生どーでもよくなります。

「良心」を捨てることは世の中に対する「礼」を逸することにもなります。

「良心」を捨てることは、僕たちが営々と築き上げてきた世の中に失礼です。



実は良心を育てるには、日常の暮らしが大事。

良心を育てたいなら、日々の暮らしを大切にすることです。

日々の暮らしとは、要は「人生」です。

人生をまっとうに生きる、これだけです。

科学者として人間として一流であるためには、人生をまっとうに生きることです。


自分の存在なんて、この宇宙にとって、ちっぽけな存在です。

そんなちっぽけな存在だからこそ、まっとうに生きたい。

それすら無くなったら、文字通り、僕の存在なんて「無」です。

僕たちの存在を許しているのは良心なのです。


科学者にとって、「良心を育てる」教育よりも、「良心を捨てない」ための教育が必要なのかもしれない。

製薬会社の社員にも同じことが言える。

posted by ホーライ at 10:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学者の基本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月05日

仕事を無味乾燥にするやつの正体

ようこそ!新入社員の皆さん!!

治験業界に入られました新入社員の皆さん、ようこそ!

最初からハッキリ言っておきますが、仕事は楽ではありません。

IRBへの依頼書作成のために、僕も何度、休日出勤したことか。(単に手際が悪いといも言える。)

製造販売承認申請の1週間前からは徹夜もざら。(単に仕事量の予想が下手とも言える。)

まぁ、このあたりのことは仕事が始まれば、おいおい、分かってきます。


僕が言いたいことは次のとおりです。

●患者が怠けてもモニターは死にませんが、モニターが怠けると患者は死にます。

●治験を生かすも殺すもモニターしだい。

●世界を動かしているのは自分なのだという自覚を持つ。


ここまでは、治験の話。

では、ここからは人生の話。


人生に欠かせないものは「夢」。

あなたはこの仕事について夢がある?

夢を持っていると、たいていの辛いことが、ちょっとだけ楽になる。

夢を持っていると、生きていることの辛さを、ちょっとだけ救ってくれる。

夢は全ての原動力だ。



入社して何年たっても、夢を熱く語る人でいてほしい。

夢を持ち、その夢を達成するための希望があり、希望があれば、生きがいのある人生になる。

夢があれば、挫けない。

夢の無い人生は砂漠を歩くようなもの。


だから、あなたに夢を持ってほしい。

ただし、その夢にたどり着くためのルートは誰にも分からない。

夢を見つけるために五里霧中になることもある。

だけど、とにかく、夢を目指していれば、どんなに遠回りしたとしても、必ず、夢にたどり着けることができる。

四六時中、夢を見る。

それに夢の無い仕事は無味乾燥なものになる。



夢についての良し悪しは誰にも分からない。

何故なら、夢はあなたにしか分からないものだし、夢はあなたにしか価値を与えてくれないのものだから。

お金はあるけれど夢が無い人は幸せとは限らない。

でも、お金が無くても夢がある人は幸せだ。


その夢を自分の手でつかめ!



posted by ホーライ at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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