2014年03月28日

消えざるを得ないものは消えればいいと思うのだ。

まずは、じっくりと下記にあげた資料をじっくりと読んでみましょう。


●第5回高血圧症治療薬の臨床研究事案に関する検討委員会 資料
  ↓
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000041317.html
  ↓
●高血圧症治療薬の臨床研究事案を踏まえた対応及び再発防止策について(報告書(案)
  ↓
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000041943.pdf



●透明性確保等に関する日本製薬工業協会の取組み状況について
  ↓
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000041942.pdf


●我が国の研究者主導臨床試験に係る問題点と今後の対応策
  ↓
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-t140327.pdf




●第10回疫学研究に関する倫理指針及び臨床研究に関する倫理指針の見直しに係る合同会議 資料
  ↓
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000041313.html
  ↓
●「人を対象とした医学系研究」(仮称)に関する倫理指針 (草案)
  ↓
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10601000-Daijinkanboukouseikagakuka-Kouseikagakuka/0000041680.pdf


●統合指針(草案)と現行指針の対比表
  ↓
http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10601000-Daijinkanboukouseikagakuka-Kouseikagakuka/0000041689.pdf



・・・・・・ということです。

治験でもない、企業主導の臨床試験でもない、いわゆる「臨床研究」(研究者主導臨床試験)について、「法制化」しようとか、「ICH-GCP」に準拠させようという動きがある。

それに対して、「そんなにガチガチにすると臨床研究が低迷する可能性がある」と懸念する声や「一律に臨床研究に対してICH-GCP準拠を要求するのはいかがなものか。それでは日本の臨床研究が空洞化する恐れがある」というような意見がある。

僕が思うに、一時的に「臨床研究が低迷」したり「国内の臨床研究が空洞化」することはあると思うけれど、それを「懸念」したり「恐れ」たりする必要はない。

つまり、それだけの体制についてこれない臨床研究が無くなり、厳選された臨床研究だけが残るのだから、何も心配することはない。

そもそも、例えばICH-GCPに準拠できない臨床研究は国際的に評価されないだろうし、そんな臨床研究の被験者になる患者は、たまったもんじゃない。

そういう国際的な評価に耐えられない臨床研究は無くなればいいのだ。




その昔、GMPが制定された時、全国にあった「家庭内手工業」的な製薬会社さんはGMPに対応ができなくて、「こんなに厳しいGMPを制定するのは、弱い者いじめで、我々零細企業は消えろということか!」という声があったらしい。

それはそれで正解なのだ。



僕の先輩から聞いた話では、かつてGCPすらなかった「無法地帯」だった治験をやっていたところに、局長通知レベルのGCP(いわゆる旧GCP)が出た時も、こんなに厳しい規則ができたら、治験なんてできない!という声があったらしい。

(ちなみに、ここで言う旧GCPとはあくまでもICH-GCPが導入される前のGCPだ。)


その旧GCPでは治験に参加する際の被験者の同意は「口頭」でもOKだったのだが、それすら、厳しいと、当時の医薬品開発者は思ったらしい。

絶対に、好き好んで新薬の実験台になる人なんていない、だから、同意は取るなんて不可能で、これからは治験なんてできない、という発想だったとのこと。

でも、とにもかくにも局長通知のGCPが公布された。

僕がモニターとしてデビューしたのは、この局長通知のGCP(旧GCP)の時代だ。

その後、ICH-GCPが公表され、「答申GCP」が発表された。

その時、僕たちは「こんなの絶対に無理!」と思った。

特に、僕は当時、抗がん剤の治験をやっていたので、「がんの告知」すらできない時代に、抗がん剤の治験の参加に際して「文書の同意」なんて無理だと思ったものだ。


ところが、今、そんなこと、誰も信じない。

「最近の若いもんのモニター」はモニターとしてデビューした時から「文書同意」があたりまえであり、「SDV」をしていなかった旧GCPの時のデータの信頼性はどうやっていたんですか?と僕に聞いてくる。(僕にはとてもじゃないが答えられない。)


・・・・・・ということで、「絶対に無理」という状況も時代がすぎれば「ただの常識」となる時が来る。

化石のような人たちがいなくなれば、自然にそうなる。

「臨床研究」(研究者主導臨床試験)にも、同じことが言えると思うね。

どう?

posted by ホーライ at 18:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 臨床研究について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月22日

50人が死亡しても1億人が助かればいいのか?

医薬品のリスクとベネフィットと家族の想い

医薬品には副作用が不可避なところがあります。

僕が普段、飲んでいる頭痛薬は胃腸障害があります。

でも、胃腸障害を防ぎつつ、頭痛薬を飲んでいます。

胃腸障害の不快感以上に頭痛薬を治すことの方が、僕にはベネフィット・メリットがあります。

さらに、僕が常用している抗うつ薬には便秘や口喝等の副作用がありますが、それ以上に、僕の抑うつ感を取り除いてくれることのほうがありがたいので、抗うつ薬は使われ続けられます。


ワクチンでも同様なのですが、ただ、ワクチンは接種が「義務づけられている」ものがあります。

そういう接種が義務付けられているワクチンにも副作用があります。


さて、ここからは、「例えば」の話です。

例えば、強毒性のインフルエンザワクチンが発生した場合、そのインフルエンザに罹患して死亡する確率とワクチンを接種して死亡等の副作用にかかってしまう確率が問題となります。

もちろん、この場合、ワクチンを接種したほうがインフルエンザで死亡するより確率的に低いので、ワクチンを投与することの正当性があります。

でも、確率的と言っても、自分の息子がワクチンの副作用で死亡してしまえば、そんな疫学的な確率なんて、クソくらえ!的になるわけです。

日本という国にとっては、ワクチンで死亡した人数が50人でも、強毒性のインフルエンザが全国に流行してしまった場合に想定されている死亡者の数より低かったら、ワクチン接種が正当化されます。

でも、繰り返しますが、日本が助かったからと言って、自分の子どもが副作用で死亡したら、それは問題です。

せいぜいが国に対して損害賠償の訴えを起こすぐらいで、それでも、子どもは生き返ってきません。


ワクチンに限らず、医薬品全般に言えますが、常に私たちはリスクとベネフィットを考えて判断を強いられます。

そんな時、一般の人はどれだけの情報を与えられるでしょうか。

治験が日本で進まない理由のひとつに「同意取得のための説明文書」中に多くの副作用が説明されているからだ、という説があります。

でも、みなさんもご存じのとおり、治験薬といってもたいていが既に使用されている医薬品と副作用についてはほぼ同等です。

しかし、一般市民の人は日常診療ではほとんど副作用について説明されないのに、治験になると急に副作用のことがかなりの時間をかけて説明されます。

それで、一般市民の人は恐れをなすとも考えられます。



医薬品の開発って、難しい。

副作用で50人が死亡しても1億人を救うことができれば、その医薬品は成功なのでしょう。

でも、50人の家族にとっては、そんな「成功」なんて言葉は意味をなしません。

僕たちは難しい世界で働いていることを再認識しましょうね。


posted by ホーライ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 治験の課題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月15日

潔く生きる

STAP細胞がややこしいことになっていますね。

どうして、あんなことになったのでしょう?

功名心(こうみょうしん)の成せる業でしょうか?

ところで、「成功」とは何でしょう?

僕にとって「成功」とは「自分らしく」生きることです。

虚栄も張らない。

他人に好かれようと無理しない。

そんなことで、自分の人生を無駄にしたくありません。



僕も50歳も半分に近づこうとしているので、今までとは違った生き方をするようにしています。

それは「蓄積」する人生から「捨てる」人生です。

僕の部屋は文字通り「本」で埋め尽くされています。

そこで、昨年の暮れに決心して、本を捨てる(あるいはリサイクル)することにしました。

おかげで、今では「さっぱり」しています。



物だけでなく、心の面でも「捨てる」ようにし始めました。

名誉欲や物欲は自分らしい生き方に対して足かせになります。



あなたは誰からも好かれようとしていませんか?

それって、すっごく、疲れますよね。

人間なのですから、完全無欠はありえません。

ときには嫌われることだってあります。

でも、それはもうしょうがないこと。

その人のために、僕の人生を曲げたくありません。


本当にやりたいことをやるには人生はあまりにも短すぎます。

そんな人生の貴重な時間を虚栄心で無駄にしたくありません。

地位や名誉なんて、しょせん、人生にとっては『飾り』でしかありません。

それよりも大事なことは自分の人生を生きること。生き切ること。


潔く生きたい。

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2014年03月01日

今日のまさかは明日の?

今年の冬は、関東地方の平野部でも大雪が2度ありましたね。

僕は実家が新潟です。

新潟は大雪が降ることが前提に家が作られていたり、除雪が前提となった街づくりがなされています。

たとえば、道路の真ん中の地下を「消雪パイプ」が走っています。

もちろん、車を持っている人は必ず、「スタッドレスタイヤ」を持っています。

用心深い人は車の中に「シャベル」と「牽引用のワイヤー」や「毛布(防寒用)」を積んでいます。

大雪が降ると道路と田んぼの区別がなくなるので、道路の端には「ここまでが道路ですよ」ということを知らせるために5m置きに黄色と赤の縞模様の鉄パイプ(高さ3mぐらい)が立っています。


ところが、東京等は大雪は降らないという前提で街ができています。

というか、1mも雪が降るなんて、想定されていません。

しかし、3.11以来、「天災」に対する考え方が変わってきましたよね。

関東地方も、今後は1mの大雪が降ることを前提に街づくりをしないとだめです。

それはコストがかかりますが、コストと人命とどちらをとるかということですから、「無駄を承知で」防災をすることです。(無駄になったら、それはそれでよいわけで。)


経済成長予想も日本という国では人口が減少することを前提として考えないといけません。

少子高齢化を前提とした福祉制度を考えることが必須です。


治験の世界も同じですよね。

今ではもう国際共同治験を前提としたプロジェクト計画が必要です。

世界中で「英語」を自国の母国語に変換したプロトコルやCRF、治験薬概要書が必要な国は何か国ぐらいあるのでしょうか?

多分、日本は少数派でしょう。

日本は治験も「ガラ系」。



英語は知っていると有利というより、英語を知らないと不便です。


そうそう、思い出したことがあります。

ICH−GCPが日本に導入された15年以上前、日本は一時的に治験が国内空洞化現象がありました。

日本の治験環境がICHに対応していなかったからですね。

その頃、フランスからやってきた僕の上司は、「日本で治験ができないなら、韓国でやればいいじゃないか」と言い放ちました。

その当時は「そんなの無理じゃ!!」と思いましたが、ユーラシア大陸の西の端からやってきたフランス人にとっては、日本なんて、大陸の東の隅っこにある小島ぐらいの感覚しかなかったので、モンゴリアンならいいんじゃないの、という感覚でした。

今ではアジアンスタディがあります。

15年前には笑い話の種だったのが現実のものとなっています。


今日の「まさか」は明日の「現実」です。




posted by ホーライ at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 治験の改革 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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